牡蠣( カキ )はカキフライにするあのゴツゴツした貝ですね。冬をあらわす季語でもある。俳句が季語を使うと
いうのは、「 もともと使える字数が少ない上に、そのうえ季語に文字数を奪われたのではやってられないぜ 」
という反発を感じる縛りになり得ます( 無季句もあるけれど )。けれども一方では字数の節約になるのです。
牡蠣は冬の季語なので「 これは空気がキンと冴え冷えた冬の磯海の話ですよ 」という状況説明を省くことが
できる。・・・・例えば柿は秋の季語でも、「 木守柿 」 は冬の季語。
『 すっかり実も葉も落ちてしまった初冬の柿の木の枝に、どういうわけか柿の実が1つ2つだけ落ちずに残って
いるのが見える 』
という長い長い情景説明を、5音だけ費やして手に入れることができる季語です。季語を使
うのは窮屈なのではなくて、5・7・5しか無いからこそ、知っているとお得!なのだ ということだと思います。
ただ「柿の木を題材に句を読んでみて」と請われると過半数の人が自分独自の視点のつもりで『 柿の木の枝
に1個だけ実が残っているところへ夕陽が差している 』という絵葉書的なステロタイプの風景を詠むそうで、
"自分の感覚で詠む" ということは、想像するより難しいのかも知れません。
さて、この牡蠣の口の句を面白いなあと思うのはその妙な視点です。ビューポイント。私はコンピュータグラフ
ィクスを作るので、3D形状入力後に、バーチャルなカメラをそのバーチャル空間内で、鳥の視点から蟻の視点
へとあちこちに移動しては構図を確かめますけれど、それに類する 「視点の自由さ」 があります。
月光が照らしている冬の海の浅瀬。ゴボゴボっと潜ってみると海面下数十センチの岩にゴツゴツした風体の
牡蠣が取り付いている。固く口を閉じている牡蠣であるけれども、もしその口を少し開いたならば、その隙間
から青白い月光が差し込むだろう。
ということかなあ、と思うのですが、頭に浮かぶ風景は、冬の海に潜らされた上に、シュッとカメラが移動して光
の届かない真っ暗な蠣の殻の内側に自分が潜んでいる視点に移る。するとギギっと殻の口が開いて月光が差 
し込むのを眺めるという映像です私の場合は。その妙な視点を気に入っています。加藤楸邨(しゅうそん)、好み
です。秋風の句は秋に自転車で走っている時にしばしば思い出します。自転車で走っているときには頭蓋と耳
たぶが空気をかき分て「カルマン渦」を生じていくコーッという音が常にしています。でもときおり、ふっと風切り
音が消えて実に静かな疾走状態に入ることがあります。あれは風と自分の進行方向と速度がピッタリ一致した
瞬間であるはずで、そんなときに。桜の句はつぶやき易くて好き。 夏草やの句は自分の解釈を超える想
像の膨らませかたがありそうな気がして読み足りない感覚がいつもある。 六月をの句はよく言われるように
「六月は」「六月だ」「六月に」等ではなくて狙って「六月を」としてある、その「を」を選んだ練られ具合を冴えて
いるなあと思います。といっても俳句を詠む会などでは、各自の句を皆で推敲して「を」が良いか「は」が良いか、
切れを高めるために倒置するか?、などと練り上げていくのが普通ですが。個人的に俳句においては「きれい
な○○」 「冷たい○○」「寂しい○○」などの直接的な形容をしないで、直接形容していないけれども読み手の
心がそれを感じるような表現を好みます。でもこの句は「きれいな」という一種芸の無い表現が、ひねらない率
直さだと思えます。 蝶落ちての句は派手すぎて好みではないのだけれども、俳句が年寄り臭いと思っている
人に前衛アートっぽい俳句もあるのだなと知って欲しいときの、武器・フックとして強力です。
俳句に無関心で話を通り過ぎようとする人を立ち止まらせるパワーがあります。